第二章柿狩り始まる

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昭和初期、石だらけの山麓を手で開墾し、柿の木を植えていった田主丸の人々。
やがて戦後の復興の中で、柿狩りという手法を思い立ちます。
それは、日本でも初めての観光果物狩りの始まりでした。


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柿の手入れ風景(昭和30年代)





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柿狩りにヒントを得た
巨峰狩りの風景(昭和30年代)









第二章 柿狩り始まる

古くから名物だった柿

 ちょうどその頃、柿園に新たな風を送り込んだのは教育委員会次長だった福田秀実さんでした。
 田主丸河童族の一員でもあり、住職かつ自由律短歌の先駆者といくつもの顔をもっていた福田さんは、田主丸の今や幻となった特産品「漫画こけし」の主宰者でもありました。
 戦後、夫が戦死し子どもを抱えた女性たちに働く場をと、大映からディズニーの版権を譲り受けつくりはじめた漫画こけしは、日米文化の思いも寄らぬ組み合わせで大ヒット。アメリカにもさかんに輸出され、その当時、50人近くの女性たちが職を得ていました。

柿狩りをせんの

 その漫画こけしのお客さんや敬老会の人々に、田主丸特産の柿を「畑に来てもろーち、とっちもらおうや。日本で初めてん柿狩りてぃ。」と言い出したのが、福田さんでした。
 最初にすすめられた右田果樹園の右田正雄さん夫婦は、お客さんを畑に入れる、ましてや「柿狩り」など、最初はとんでもない「恐怖」だったと当時を振り返ります。

「この木から穂木をとり」

 右田さんの柿畑には、田主丸の苗木職人が岐阜から持ち帰って接いだ富有柿の木がありました。
 「柿狩り」といっても、柿畑で「この木から穂木をとって苗木を育て、田主丸に富有柿が広がりました」というような話に耳を傾け、あらかじめ選別された柿を買うというスタイルでした。しかし、軌道に乗るにつれ、紙袋、竹かご、プラスチックのフルーツかごとアイディアを重ね、もいだ柿の量り売りが始まり、今のスタイルができあがっていきました。
 まだ山辺への道も狭く、役場には観光の部署もまだない頃。福田さんや役場職員が、町役場にきた問い合わせのお客さんを引き連れ、いつもえっちらおっちら坂をのぼってきていたといいます。
 この柿狩りはかたちをかえ、苦難の道を歩んでいた巨峰農家によってさらに「巨峰狩り」が始まります。もはや戦後は終わったといわれた昭和30年代、豊かさを追い求める時代が来ていました。爆発的なフルーツ狩りブームが巻き起こることを、最初に柿を植えた人々の、一体誰が想像したでしょう。
 かつて福岡文化協会立ち上げの時に育まれた文化人との人脈と、その奇想天外なアイディア。福田さんは、農業と観光とを結びつけた「観光農園」の生みの親でした。
 田主丸は、フルーツ狩り発祥の地として、今日もその歴史を刻んでいます。